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曜変天目 
P8270043.jpg   <静嘉堂文庫蔵:別名“稲葉天目”


このところバイク・ネタが続いています。ブログの題名から、これって“ライダーのブログ?”と誤解されそうなので、今日は久し振りにヤキモノ・ネタ。 一応これでも“峠窯・裏日記”ということになってますから。私は焼き物も好きなんです(!?。焼き物ファンの方、長らくお待たせいたしました。


茶道をやられた方はこの名を聞いたことがあると思うのですが、“曜変天目”という不思議な茶碗があります。“耀変”とも書きますが、“曜”=星、“耀”=星の輝きを意味します。釉面に現れた瑠璃色の光芒を発する斑文が、あたかも星が瞬いているような趣であるとして、この名前が付けられたと言われています。窯の中の変化“窯変”も暗に含まれていたかもしれません。ラスター性を帯びた釉薬の被膜の厚みよって、光の屈折率で、このように変化して見えるのだろうと思われますが、まさに碗の中の宇宙、星々に瞬く虹のようです。

12~13世紀の南宋時代、中国・福建省・水吉鎮(現在の建陽市)にあった建窯けんよう)で焼かれたとされている茶碗ですが、一般的に、この建窯から生まれた天目茶碗には、“油滴天目”、“禾(のぎ)天目”、“灰被(はいかつぎ)天目”、そしてこの、“曜変天目”と、4種があり、中でもこの“曜変天目”がその最上級に位置されています。

話が少しそれますが、皆さんよくご存知の“木の葉天目”は、江西省の吉州窯で作られたもので、他にこの窯では玳皮盞(たいひさん)天目、とか鼈盞(べつさん)天目(=鼈甲天目)が作られています。灰黄色の生地に黒釉に藁灰釉を二重掛けし、その垂れが鼈甲(べっこう)状に見えるのでこの名があります。これら吉州窯で作られた天目は、先の建窯で作られたもの(=建盞・けんさん)とは別に、“吉安(きちあん)天目”とか“吉州(きっしゅう)天目”と呼ばれます。

建盞(けんさん)のこの“曜変天目”ですが、現在、世界で4点(または3点・1点は油滴天目とする説もある)しか現存していません。そして、その4点全てがこの日本にあって、内3点が国宝、もう一点の加賀前田家に伝わって小説家・大佛(おさらぎ) 次郎(鞍馬天狗の作者です)が所持していたものは重要文化財になっています。実はもう一つ、この日本に天下第一の“耀変天目”が存在していたらしいのですが、足利義政から織田信長と時の最高権力者に所有され、本能寺の変で他の多くの名物と共に焼失してしまったといわれています。

世界にたった4個(あるいは3個)、当の中国本土でさえ、まだ一件も発見されておりませんし、
どの碗も、口径:12~12,3cm、高さ:6,6~6,8、高台径:3,8~3,9cm、で、1、2mmの誤差しかないことや、胎土も建窯付近にあるラテライト(語源は“レンガ”という意味のラテン語)質の岩石の風化した同様の土なので、同一作者による、1回だけの窯焚きから生まれ出た物ではないかという説もあります。


P8270044.jpg

天目茶碗に多く使われたので、この鉄分の多い飴釉のことを天目(てんもく)釉といいますが、厳密には、天目釉を使っていなくても、このような、口が開き、底が締まったすり鉢型で、口縁で碗側が一度内に絞ってある(スッポンの頭のような形をしているので鼈口“すっぽんくち”といわれます)形の茶碗自体も天目碗と呼ばれ、中には“白天目茶碗”という素晴らしいものも存在します。

本来は、神・仏にお茶を供えるために特別に作られた碗でしたが、現在では天目台あるいは貴人台と呼ばれる専用の台に載せて“貴人手前”として位の高い人がお客様にいらっしゃったとき用のお茶のお手前として使われています。



現在、日本に国宝の茶碗は8点(陶磁器全体でもわずか14点しかありません)。そのうちの3点が、この“曜変天目”です。奇跡のように生まれた茶碗です。どうしてその全部が日本に渡ってきたのか、今となっては知る由もないですが、もし作者が同一人物であったとしたら・・・・・・これはスゴイことですネ。

馬蝗絆(ばこうはん) 
馬蝗絆  馬蝗絆・裏


日本には現在、国宝に指定されている焼き物が14点(内・国産5点)ありますが、そのうち8点が“茶碗”です。このように(6割近く)、我々日本人にとって“茶碗”とは、格別の思い入れを持つ器のようです。

歴代の数ある名碗の中から、1つだけ私の好きな一碗をと聞かれたら? 躊躇無く私はこの“馬蝗絆”を選びます。30年前 私がこの道に踏み込んだ当初から、この思いに変わりはありません。残念ながら、国宝ではないですが重要文化財になっています。

12世紀、平重盛が南宋・浙江省杭州にある仏教の聖地“育王山(いおうざん)”に3000両の黄金を喜捨した際、その返礼として長老・仏照禅師から贈られたものと伝わっています。有名な南宋・龍泉窯の砧青磁の名品です。釉薬の中に含まれた僅か2%ほどの鉄分が還元炎で燃えることで、青く発色します。

その後15世紀室町時代、将軍足利義政が所持するところとなりましたが、底にひび割れが生じたため、中国に送り(入明する禅僧に託し)これに代わるものを求めたところ、当時の中国()にはもはやそのような名品はなく、6個の鉄の鎹(かすがい)でひび割れを止めて送り返してきたといわれています。この鎹を大きな蝗(いなご)に見立て、“馬蝗絆”と名づけられました(中国語で「蝗絆」はヒルとする説もあり)。

普通、焼き物は、漆や膠(にかわ)を糊代わりにして目立たないよう直しますが(日本には金継ぎという敢えて景色とするものもありますが)、これはわざと目立つ大きな鎹を打ち込んでいます。もう二度とこのような美しい青磁器は作れないということを強調する意味も多分にあったのではないかと思います。

室町時代の日本には中国にも残されていないような優れた青磁器が伝えられていたという事実、そしてその美意識を日本と中国の両国が共有していたという感慨、こういう伝世がいっそうこの茶碗に大きな付加価値を与えました。

足利将軍家以降、吉田宗臨(角倉家の2代目・足利将軍家の家臣)に伝わり、そして長く角倉家(角倉了以で有名)に伝えられ、その後室町三井家(三井十一家の一つで茶道具の収集では特に有名)に伝わります。三井財閥の三井高大氏から1970年東京国立博物館へと寄贈されました。


高さ9・6㎝、口径15・4㎝、高台の径が4・5㎝、もっとも単純な表現でありながら極めて完成度の高い姿かたち。
危うい位の薄さなのに、決して冷たくはなく、むしろ少し暖かみさえあるような、優美で別格の気品が漂っています。

もちろん私はまだ、東山御物展のガラスケース越しとか写真でしかこの茶碗を見たことがないのですが、不思議と幾度も手にしたような錯覚に陥ります。びっくりするほどの手取りの軽さや、凛とした乾いた緊張感も実感できるほどに、それほど私の心象にぴったりシンクロしてやまない茶碗 - “馬蝗絆”です。



汲出し腕 
粉引汲出し碗  汲出し・箱

私の器を使ってくれている割烹料理屋さんから電話がありまして、
お店のお客さんが私の器を前々から気に入ってくださっていて、ぜひ欲しいと言ってくれてるとのこと。

お店で預かっておいてくれるというので、それでは、と喜んでお店まで配達してきました。


こういうのは一番うれしいご注文なんです。
というのは、私の器は8割がたは贈答品で贈られることが多く、
買って下さったお客様が直接気に入って使ってくださる、というのはやはり一番作家冥利に尽きる気がするのです。
買って下さったお客様が毎日使ってくださって、すごくイイから人にも色々あげたいの - これ又、強烈に嬉しいです

そのお店で長年使ってくれている器とは、厳密に言うと業務用で使われるので汚れがなるべく付き難いように土の粒子を変えてあるので少し違うのですが、形・色合いは同じで(大きさは土の収縮度の違いで若干1、2ミリ違ってきますが)個人のお客様用に作っているものを用意して、少し土味が違うのですがこれでも気に入ってくださったなら是非お買い上げ下さいと一筆箋を添えました(お代はお店がご親切に立替えてくれましたが)。


よく“すいだし碗”と読み間違えられますが、“すう”は口へん、これはサンズイ、で - “く・み・だ・し・腕”。

“粉引輪花(こびきりんか)汲出し碗”と、申します。



“く・み・だ・し” - 泉から両手で水をすくい汲出す、両の手を重ねたカーブからきていると云われています。
“器”としての空間の もっとも古いカタチと言えるのかもしれないですネ。本来は、お客様用のお湯呑みとして使われますが、ここ神谷(かみたに)さんのように小付(こづけ)として使っても便利です。

神谷さんは:今治市波止浜11-40 営業時間11:30-14:00/17:30-20:00定休日月曜日、はしはまハッピープラザのすぐ裏手(海側)にあります。金沢で修行してきた大将で、粟蒸し等一手間入れた小粋な和食が楽しめます。


卯年に跳ねる 
20101213korin_dm.jpg

迷い犬を飼ってくれることになった大三島のF君、
実は私と同じ“茶碗屋”でして、京都・炭山の陶芸村で6年間一緒に修行時代を過ごしました。

炭山陶芸理事長・今橋貴古さんのお弟子さん、私が修行した工房から10歩ほどのお隣さんでしたが、北海道から沖縄、全国から陶芸村に集まった弟子連中(当時15~20人位)の中で唯一人の同郷者で心強い仲間でした。20年程前に滋賀県で独立し、10年位前に生まれ故郷の大三島に戻ってきました。

今はツチモノもやっていますが、染付け磁器や色絵磁器が得意です。


彼の個展が今日から東京・銀座の画廊で始まっています。
関東圏にお住まいの方、或いは東京にお出かけ予定の方、時間がございましたら是非、覗いてみてやって下さい。
ドッグフード代ば 彼は稼がんといかんとです~!!


2010年12月13日(月)~12月18日(土) AM11:00~PM:7:00(最終日はPM5:00迄)
中央区銀座5-5-9 阿部ビル4F “ACギャラリー”
地下鉄銀座駅B3/B5出口 徒歩2分

“瀬戸内海に浮かぶ小さな島の陶磁工房・古林一男・香織展

筒井筒 
筒井筒

前回紹介しました井戸茶碗の名品“喜左衛門(国宝)”に並んで有名な井戸茶碗がコレ、“筒井筒”。
朝鮮李朝前期 の茶碗で、口径14.5cm 高台径4.7cm 高さ7.9cm。いわゆる大井戸(おおいど)と呼ばれる部類の茶碗になりますが、他の大井戸に比べると少し小振りでしょうか。

戦国の武将「筒井順慶」が興福寺の寺侍・井戸氏から譲り受け所有したことからこの名前がついています。

「筒井順慶」は元は大和・興福寺の僧兵軍団棟梁の出の豪族です。明智光秀の口利きで(妻が光秀の正室の妹でもあります)織田信長の臣下となりますが、本能寺の変では主君・信長と恩人・光秀との板ばさみ状態となり、再三の光秀からの協力要請を振り切って、結局山崎の戦いが終結するまで大和郡山城に籠城を続け、一切兵を動かしませんでした。

後にこのことを秀吉から叱責された時、秀吉のもとに出頭して この秘蔵の「筒井筒」を献上して辛うじて許されたのだそうです(当時、名碗は国一つにも値するといわれていました)。


この茶碗にはもうひとつ、有名な話が残っています。
秀吉愛蔵の茶碗となったこの“筒井筒”、ある日、小姓が誤って取り落とし、五つに割ってしまいました。激怒した秀吉が小姓を手打にしようとしたところ、居合わせた細川幽斎が、「筒井筒 五つにわれし井戸茶碗 咎(とが)をば我に負ひにけらしな」と詠み、秀吉の不興がとけたという逸話が残っています。伊勢物語にある有名な「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」をかけたものですが、とっさの間に、さすが戦国武将の中でも歌の名手といわれた幽斎(元総理・細川護熙さんのご先祖)だけのことはありますネ。そして、それを解した秀吉もなかなかのものです。単なる戦上手のエロ爺ではなかった、ということでしょうか・・・・・・

その後“筒井筒”は写真のように金継ぎされました。「金継ぎ」とは「金繕い」ともいい、割れ目を漆と金紛で継ぎ直し、継ぎ直したことによりその景色に更なる価値を見いだそうとする修理方法で、茶の湯によってこの時代に確立された日本独自の新しい審美眼と言えるかもしれません。

一国を安堵したほどの茶碗、太閤の茶碗、近習の失敗による粉砕、小姓の命、幽斎の機転と雅味ある歌、こういったもろもろの状況全体が、さらにこの茶碗に付加価値を与え、名碗【筒井筒】を作り上げました。

昭和25、重要文化財指定。現在は金沢・嵯峨家(元・侯爵家)の個人蔵となっています。



面白い話をもう一つ - 「筒井順慶」は大和の筒井城城主・筒井順昭(じゅんしょう)の嫡男として生まれました。父・順昭が28歳の若さで病に倒れ、順慶は僅か2歳で家督を継ぐことになります。当時の大和は松永久秀(弾正)が隆盛を極めており、筒井氏にとっては大変厳しい情勢にありました。順昭は死の間際に家臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに、敵を欺くため、自分と・姿が良く似ている木阿弥(もくあみ)という奈良の盲目の琵琶法師を身代わりに、病床に伏せているように見せかけて来客の応対をさせ、3年間(一説には、順慶が成人するまで)自身の死を隠すことを命じました。木阿弥は身代わりの間、贅沢な暮らしができましたが、筒井家臣団が順慶の下で体制を整えなおした後は奈良へ帰され、元の身分に逆戻り。このことから「元の木阿弥」という故事が生まれたといわれています。

とはいうものの、順慶自身も36歳という若さで病死。子がいなかった為に養子の従兄弟・定次が跡を継ぎますが、順慶の死から31年目に、豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられ絶家、筒井家は滅亡します。

大名家としての筒井家は今より400年近くも前に既に滅亡してしまいましたが、井戸茶碗“筒井筒”は割れても尚、天下の名碗として屹立し、現在もまだその姿を変化させながら生き残っています。
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