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河島先生 
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荷物を整理していると、古い新聞がありまして、懐かしい新聞広告が出てきました。
大変ビールが好きな方で、仕事が終わると毎日5~6本の壜ビールを空けるのが何よりの楽しみだったようです。そんなビール党が見込まれて(どこで見込まれたか?)、一時サッポロビールの宣伝に出ておられた時がありました。(それにしてもイイ笑顔です

河島浩三先生 - 京都府宇治市炭山・共同組合炭山工芸村の設立者であり元理事長、現在はご子息が理事長を継がれています。

私の師匠(京都では大概大将と呼ばれますが)近藤サンは、河島先生が五条坂から移転して(大気汚染防止法の施行が迫り、登窯が焼けなくなった陶工たちは新天地を捜し求めていました)宇治の山里・“炭山”に工芸村を設立した当初(昭和43年)付き従った最初期の弟子の1人でしたので、私にとって河島先生は“祖父さん先生”にあたります。


終戦後の栄養失調にデザイン研究による目の過労が重なり 目を病んだ為、ほぼ半盲となり、NKH番組“或る人生(NHKアーカイブスの前身)・みえてるうちに~半盲の陶工~”として全国に紹介されたこともあったようです。

私が修行しました“炭山陶芸村”は河島先生の“炭山工芸村”から歩いて1分の隣にありましたので、よくお見かけしましたが、杖も突かず普通にトコトコ歩いておられましたから、半盲といっても、ボンヤリ程度には周りは見えていたのでしょう。

「“作り”はできたとしても、高台裏の“削り”が、殆ど見えない目で、よくできるものだ!」と、当時皆が感心していたものです。手の感触だけで、同じサイズ・同じ重量のものを 最少の土取りで均一に作り、感だけで皮一枚を削った位で仕上げられる程の確たる技術がなければ、目が不自由では量産品はこなせません。

京都ベスト三展に推薦されたほどの陶芸家でしたが、“生涯一工芸家”を貫き通し、決して芸術家振らず、価格的にも大変良心的な 一般の方が使える器を心がけて作っておられました。が、その傍ら“走泥社”(20世紀の終焉と共に解散した有名な前衛陶芸団体・昭和23年設立)の同人で、新しい陶芸の可能性にも常に挑戦しておられました。

村設立の功労者、村長(むらおさ)ともいえるリーダーなのに、温厚で、全然驕ったところがなく、上下分け隔てなく私共とも普通に接してくださいました。容姿は“悪役商会”の室田日出男さんにソックリ。

私が炭山にいた当時(ほぼ30年前)、村長(むらおさ)+大先生、あまりにも畏れ多い存在だったので、当時から結構お歳の方とばかり勝手に思い込んでおりましたが、よくよく考えてみますと、丁度今の私と変わらない年代だったのですネ   比ぶれば、なんと今の私の不甲斐ないことか!!
 

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