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“猿飛佐助” 
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わが今治市・駅前のバスターミナル横には、ニョキッとこんな像が立っています - 雲に乗った“猿飛佐助”。日本人にはお馴染みの大ヒーロー、有名な真田十勇士の筆頭で忍術と体術の名人。

真田軍団活躍話の原型は、江戸時代に書かれた軍記物『難波戦記』(寛文12:江戸初期)や小説『真田三代記』(元禄期:江戸中期)等に見られるそうですが、「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、大正時代に刊行された立川文庫(たつかわぶんこ)だったらしいです。立川文庫は、大阪の出版元、立川文明堂(たつかわぶんめいどう)より、1911年(明治44年)~1924年(大正13年)にかけて出版された、「書き講談」による青少年向けの文庫本でした。

特に猿飛佐助と望月六郎(この人は実在の人物ともいわれています・爆弾作りの名人)はこの立川文庫で始めて登場したキャラクターなのだそう。

世界一おもしろい話は西遊記→が空ぶ話→あの孫悟空をちょんまげにしたら - ふとした会話をヒントに、実はこんな発想から生まれたニューヒーローだったらしいです。

さて、その“猿飛”がなぜ“今治”なのか - それはですネー、この「書き講談」から発展した“立川文庫”の考案者&メイン作者が山田阿鉄(おてつ・号酔神)という今治出身の人だったからなのだそうです。



愛媛県今治の大きな回船問屋「日吉屋」の女主人山田敬は、五人の子どもがありながら、四十三歳のとき旅の講釈師玉田玉秀斎(当時は玉鱗)と駆け落ちし、大阪に逃げてきます。生計を立てるため玉秀斎の語る講談を本にして貸本屋におろしたりしていましたが、これを長男の山田阿鉄(おてつ・号酔神)が助け、「玉田玉秀斎口演 山田酔神速記」として売り出したのが大当たり、阿鉄ひとりでは間に合わなくなって、四散した弟達や妹を呼び寄せます。それに姪や阿鉄の友人達が加わっての集団製作になりました。講談本人気が下火になってくると、小洒落たミニ文庫本に仕立て売り出します ー それが“立川文庫”。この頃になると、もう玉秀斎はそっちのけ、とにかく面白く面白くを合言葉に書きまくり、講談の脚色本というよりも、逆に完全なオリジナル、“書き下し”となっていったようです。

この立川文庫、『諸国漫遊一休禅師』を第一作に、『水戸黄門』、『大久保彦左衛門』、『真田幸村』等が続き、『猿飛佐助』は、立川文庫の第40篇でした。14年ほどの間に200篇あまりを刊行し、大正末期には人気は下降していくのですが、一世を風靡して後々の大衆文学や時代劇にも大きな影響を与えました。この“猿飛佐助”がなかったら、白戸三平の“サスケ”や名作“カムイ”、横山光輝の“伊賀の影丸”等、沢山の忍者マンガたちも若しかして出ていなかったのかもしれないですネ。


今治出身の山田一族は皆文才や商才に秀でた一族だったみたいです。後に阿鉄は歯科医になったりしていまして、文才と商才があって、その上理数系まで得意とは。阿鉄(おてつ)、或る意味アンタがスーパーマンでした。(同じ今治に生まれながら、どうしてこんなに違うのでしょうかねー

 

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