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小島(おしま)・芸予要塞 
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今日はモミジを訪ね近所の“小島(おしま)”へ行ってきました。全国に“小島”という名の島は30ほどあるらしいですが、“おしま”と読むのは来島海峡のこの“小島(おしま)”だけなのだそうです。

PB140012.jpg  <波止浜港> 

橋でつながっていない島なので、波止浜港からこの19トンの小っちゃな渡海船“第3くるしま丸”に乗って渡ります。かつての来島水軍の本拠地“来島(くるしま)”経由で、5分、5分、わずか10分でアッという間に“おしま”に着きます。船の発着時間は大体が1時間おきですが、船がこの“くるしま丸”1隻だけなので、食事時帯(?)などは2時間に1本位になっているようです。

PB140071.jpg <28㎝榴弾砲>

港に着くと、大きな大砲が出迎えてくれます。残念ながらコレはレプリカなのですが、当時の本物は重量約30トン、砲弾の重さもなんと1個218㎏もあったのだそうです。

この島には日清戦争当時、日露戦争を予感した大日本帝国が帝政ロシア海軍の侵攻を防ぐために築いた海岸要塞がありました。陸軍省が島全体を買い上げて明治32(1899年)年から当時の30万円の巨費を投じて2年間の突貫工事で、砲台や司令塔、赤煉瓦の兵舎、火薬庫、発電所などが作られましたが、これら施設の遺跡が現在もそのまま(大分荒れてはいますが)残っています。明治時代のものとして全国に唯一完全な形で現存する海の要塞らしいです。

IMGP0081.jpg  <地下室跡

約2,500本の椿が植えられた遊歩道を通って各施設へと向かいます。

PB140039_1.jpg  PB140069_1.jpg

弾薬庫跡:湿気を防ぐ為見事なアーチで高床に>     <砲座跡

PB140068_1.jpg  <兵舎跡

東郷平八郎や司馬遼太郎の“坂の上の雲”で有名な秋山兄弟(愛媛県人です)等の活躍もあって、結局幸いにもここの要塞は実践で使われることはありませんでしたが、ここの28㎝榴弾砲6門は日露戦争中に撤去され、戦場に送られたようです。うち2門は旅順に運ばれて、苦戦していた203高地において児島源太郎の命令の下砲弾2300発を打ち込み、わずか1時間20分で完全に占領、かの激戦地203高地の攻略に重大な役割を果たしたと言われています。

広島県の大久野島要塞と共に(瀬戸内海には2つの要塞が置かれました)この芸予(げいよ)要塞の調査・設計にあたったのは陸軍の上原勇作元薩摩藩士の子でフランスで築城工学を学ぶ:後に元帥・子爵)、なんとあの加山雄三サンの曽祖父にあたる人だそうです。因みに、加山雄三サンの母方の曽祖父は岩倉具視ですから、改めてスンゴ~イ家系なのですねー。

砲台は海上をゆく船からは見えない処(山頂下の中腹)に設置されており、山頂の司令塔からの指示で放物線を描いて飛ばすようになっています。このアイデアは先ほどの秋山兄弟の弟の方・秋山真之のアイデアなのだそうです。


やがて時代は飛行機による偵察・空爆が一般的となり海の要塞の必要性が低下したこともあって、ここの砲台は大正13年の軍縮で廃止されることになりました。その時地元・波止浜町は払い下げを希望、その唯一の条件として当時まだ要塞への空爆実践を経験していなかった軍の演習に北砲台を標的にすることが決められたようです。対岸部から沢山の見物客が見守る中、まだまだ爆撃技術の習得途上だったようで、たった数弾着弾したくらいの成果に終わり、おかげで大きな破壊をまぬかれ 現在もこうして私たちも見ることができます。

紅葉にはまだ少しばかり早かったですが、丁度折よく山口からの団体さんが観光で来ていて、ガイドさんからいろいろ詳しい話が聞けてラッキーでした。2時間ぐらいで丁度見て回れるコースです。

 

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