スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
宇佐から耶馬溪、そして日田へ 
IMGP0221_1.jpg

2日目は、朝一番で宇佐神宮へ。

全国4万余りあると言われている八幡宮の総本山でもあり宇佐八幡宮ともいいます。八幡造と呼ばれる様式のこの八幡社には、三つの本殿があり、正面向かって左から順に八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后の三柱がご祭神として祀られています。

この神宮を参拝するときの作法は“二礼四拍手一礼”。通常の神社の作法が殆ど“二礼二拍手一礼”であるのに対し、出雲大社(祭神:大国主大神)とこの宇佐神宮、そして島根の熊野大社(祭神:伊邪那伎日真名子~(いざなぎのひまなご・別名=素戔嗚尊)、新潟の彌彦神社(祭神:天照大神の曾孫といわれる天香山命(あめのかごやまのみこと))、長野の諏訪大社(祭神:建御名方神(大国主の御子))だけは現在もこの礼法を守っています。一節には、この宇佐神宮は古墳の上に建てられていて、卑弥呼が祀られているのではないかとも言われているようです。称徳天皇の御世、道鏡事件の折に、時期天皇として道鏡がふさわしいかどうかの御宣託を、皇祖神を祀っている筈の伊勢神宮ではなく何故わざわざ九州の宇佐神宮に求めたかという謎もあり、なかなかロマンを掻き立てられるところです。大和朝廷が、統一国家を形成するにあたり、飲み込んでいった他の勢力の長たちの御霊を鎮めるためのとんでもない規模の社、“二礼四拍手一礼”の礼法には何か秘密が隠れているのかもしれません。現に出雲大社などは今でも皇室の人といえども本殿内までは入れないしきたりがあるそうです。

以前から一度来てみたかったこの宇佐神宮、超巨大な鳥居を3つ程くぐり本殿まではお参りしましたが、2時間ほどかけて回ったものの果たして5分の1も回れたかどうか。それほど広大な敷地で、上宮と下宮、その周りにも沢山の社殿が広がって、女房曰く“伊勢神宮より大きいかも!”。とにかく桁外れに大きな神社でした。


IMGP0729_1.jpg  IMGP0730_1.jpg

次は日田に向かって、途中“耶馬渓”を走ります。何人もが命を落とした断崖絶壁の難所にトンネルを掘り安全な道を作ろうと、禅海和尚が托鉢勧進によって資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年をかけて道を通したという“青の洞門”。菊池寛の“恩讐の彼方に”で有名です。生憎、水害の改修工事で通行止めになっており、中には入れませんでしたが、少し遠くから眺めた方が全体像が見えて却って良かったのかもしれません。1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したとかで、日本最古の有料道路ともいわれているそうです。後10日もすればそろそろ紅葉が見られるのでしょうー。

IMGP0232_1.jpg  IMGP0236_1.jpg

この洞門のすぐ近くには、大正12年に造られたという通称“オランダ橋”という日本で唯一の8連石造アーチ橋も見られます。長さ116m、日本最長の石造アーチ橋でもあります。昼には少しまだ早かったのですが、“青の洞門”真ん前にあった“音猫(おとねこ)”という音楽喫茶で軽く食事を取り、この日の宿泊地である日田へ向かいます。何気なく入った古い山小屋風喫茶店でしたが、マスターの人柄も料理も良くてラッキーでした。コーヒーもケーキも美味かった。


IMGP0742.jpg

そして、この日の最終目的地、温泉で有名な日田ひた)は、江戸時代は公儀御料処、いわゆる天領でした。裕福な商人が台頭し、掛屋(大名の蔵物の処分をし、金銭の融通や両替などに当たった御用商人)や大名の御用達が活躍して九州金融の中心となって、経済のみならず政治の中心地としても大いに栄えました。全国の天領のなかでも“郡代(代官の上です)”が置かれたのは3カ所のみ。飛騨高山、美濃、そしてこの日田でした。九州の拠点として幕府がどれだけ重要視していたかが分かります。当時、江戸、上方、長崎との経済や文化の交流も多く、その名残は現在も豆田町・隈町(くままち)という両町に古い町並みとして残されており、なかなかに情緒豊かなところでした。

IMGP0734_1.jpg  IMGP0743_1.jpg

温泉旅館が並ぶ隅町の三隅川は夏には鵜飼で有名です。右は豆田町内の歩道で見かけたストップマーク、日田下駄は昔から有名な伝統的特産品みたいです。








 

秘密にする

トラックバックURL
http://tougegama.blog119.fc2.com/tb.php/404-1cfcc17b
..

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。