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【喜左衛門】 
kizaemon.jpg     喜左衛門・裏



愛媛に今、あの井戸の名碗・“喜左衛門井戸”が来ています。

宇和島市立伊達博物館 秋の特別展「戦国浪漫~天下人の風流~」、今月の17日迄(16日は天赦園でのお茶会に出品のため展示されません)。

秀吉ゆかりの“黄金の茶室”も同時に再現されているそうです。

“見たい”、“見たい!”、“見た~い!!”、“喜左衛門が見た~い!”


私は過去2度ほどは国宝展等で“喜左衛門井戸”を見たことがあるのですが(赤と金色の華麗な黄金の茶室も見たことはあります)、この愛媛に来ているのを聞くと居ても立ってもいられない位想いが募ります。

現在日本に国宝の茶碗は8点(陶磁器全体でもわずか14点が指定されているだけです)ありますが、中でもこの“喜左衛門井戸”はその筆頭!私の大好きな茶碗TOP3の内の1つでもあります。

陶芸で生計を立てている身でありながら(だからなおさら)“喜左衛門を目指す”などとは口が裂けても絶対に言えぬ、圧倒的な存在で打ちのめされた茶碗です。

朝鮮・李朝時代(16世紀)の茶碗ですが、伸び伸びとしたこだわりのない胴体を、竹節状に削り出された高台が見事な梅花皮(かいらぎ)状の縮れを見せて、ググッと引き締めています。透明釉が全体に厚く掛かり、一箇所の絶妙な火間を残して枇杷(びわ)色にしっとりと輝いています。ほんとうに、云うことナシの絶対的な茶碗です。
口径15.4cm 高台径5.5cm 高8.9cm

この“喜左衛門”をもう1度見れば、私の最近折れかけている“やきもの屋魂”にも火がまた灯るのだろうか・・・・・・



この茶碗には数々の伝説が伝わっています。要約しますと、慶長(1596~1615)の頃“竹田喜左衛門”という大阪の町人が所持するのですが、その喜左衛門さん あまりもの数寄者道楽のために身代をつぶし、一時は島原の客引きのようなことをしていましたが、落ちぶれてついには乞食同様の身となり、加えて体中に腫れ物のある、みじめな姿になりはててしまいます。全ての収集品は既に手放していましたが、この井戸茶碗に対する妄執的な愛だけは捨て去ることができず、それほどの身になりはてても、この茶碗だけは手放さず、いつも頭陀袋のようなものに入れて首から提げ、町をさまよい歩いて、ついには路上で死んでしまったのだそうです。そして、この茶碗には喜左衛門の名が付けられました。
一説には江戸中期所持した塘何某の零落した逸話が最初の所持者・喜左衛門にすりかわったとも云われています

それからどういう経緯か本多能登守忠義に渡り(故に一名「本多井戸」とも呼ばれます)、1634年本多氏が大和郡山に封を移されるに際して泉南の好事家中村宗雪に譲られ、1751年には塘(つつみ)氏の所蔵となり、安永年間(1772~81)の頃京都の道具商・山越利兵衛という人の取り次ぎで、有名な茶人大名・松平不昧が金550両で購求し、「天下の名物なり・永々に大切にいたすべきものなり」と家族はじめ家臣たちに命じ、大名物(おおめいぶつ・室町時代から利休時代に最高位に評価された茶器)の列に加えました。

しかし、この茶碗の所持者には代々腫物のたたりがあると伝えられ、不昧公もまた図らずも腫疾(はれもの)を病んだので、夫人はこれを手放すように勧めましたが不昧公は惜しんで承知しませんでした。結局不昧公はこの腫れ物が元で亡くなってしまうのですが、没後子の月潭(たん)もまた同じように腫れ物を病んだので、亡くなった不昧公の奥方が大変心配して、1822年正月、この茶碗を京都大徳寺・孤蓬庵に寄進したと云われています。それからは月漂の腫れ物も治り、現在まで何事も起きていないということです。




 
 
わぁ、宇和島ですか?!
私も見に行きたいけど、16日から中国へ行くので。
高松に来ないかなぁ~
 
>讃岐おばさま
おはようございます。
そ、そうなんです。宇和島に来てるんです。

細川井戸、加賀井戸、名碗は沢山ありますが、あの高台の見事さは別格でしょうね。“筒井筒”と並んで大好きな茶碗です。

九寨溝、紅葉が見れたらいいですね。

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