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白滝山の羅漢さん・Ⅱ  
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前回の白滝山ですが、何故この地にこんなに沢山の(700余体)石仏が作られたのか - それには江戸末期、瀬戸内海に浮かぶこの因島に興った一つの新興宗教が関係していました。

文政五年(1822)、白滝山の麓・重井村出身の柏原伝六なる人物が四十二歳の時発心して白滝山の観音堂に籠り、神道・仏教・儒教と邪蘇教(キリスト教)の四教を融合した新宗教“一観教”を興し、その教祖となりました。伝六は観音堂一観と号して石仏造営の発願をし、尾道の石工などを呼び寄せて石像作りを依頼します。文政10年(1827)1月、伝六四十六歳のときから釈迦三尊像と五百羅漢の彫造は着手されます。

村人たちは競ってこの一観教に入信し、最盛期にはこの小さな因島に数千人余の信者を集めていたというから驚きます。急速に信者数が膨れ上がり、一観夫妻の石仏まで彫られたことに広島藩庁は大いに驚き(松山藩・広島浅野藩の共同治世下だったか)、これを邪教として翌・文政十一年に伝六を召し捕り、伝六はこの年(1828)三月十五日、広島の獄舎で病死したそうです。享年48歳。

彼の死後も石仏造営は弟子たちの手によって続けられ、文政13年(1830)3月、着工から3年3ヶ月の月日をかけ遂に完成したのだそうです。

写真上は、三体のカラス天狗の彫像。修験道も混合でしょうか。その下の観音様にはなにやら十字架のようなものが彫られています(画像ではちょっと見づらいですね)。いくら江戸末期とはいえ、キリシタンは禁制でしかも大変な重罪ですからネ。十字架が彫られた石像は探すと全部で三体あるそうです。


IMGP0042.jpg

こちらは通称:ゴリラ岩と大小神祇石、神・仏・儒・基の四宗教の統合体としての施設であるらしく、四宗教の融和を説く“一観教”の象徴でもあるらしい。先に見えるは向島と結ぶ“因島大橋”。


教祖を失い、次第に衰滅していった江戸末期の新興宗教“一観教”、いまはもう、その教理すら詳しく知る人もいませんが、彼の弟子たちが作った沢山の石仏や磨崖仏たちは、180年経った今も変わることなく(大分風化はしましたかねー)、瀬戸のこの青い空と海を見つめています。

 

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