スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
小鹿田(おんた) 
IMGP0751_1.jpg  IMGP0753_1.jpg

“日田・かんぽの宿”から佐賀県方面に向かって車で走ること約30分、この皿山トンネルを抜けると“やきものの里・小鹿田(おんた)”です。

“小鹿田焼”は、江戸時代中期、幕府直轄領であった日田の代官によって領内の生活雑器の需要を賄うために興されたもので、福岡県の小石原から陶工を招いてこの里に伝えられました。いわば小石原焼の分流ですが、この小石原焼も同じく福岡県の高取焼から伝わっており、ルーツは全て秀吉の朝鮮出兵の折に黒田長政に連れ帰られた朝鮮の陶工たちまでさかのぼります。

IMGP0781.jpg   IMGP0771_1.jpg

集落には14軒がありますが、その内10軒が窯元。(他には酒屋とそば屋がありました、皆さんよく飲むのでしょうねー。)集落全体が皆同族なのだそうです。それぞれが皆“韓臼(からうす)”を持ち、5軒が個人の登り窯を持っています。残りは2軒と3軒に別れて交代制で、村の大きな共同窯を焼くようです。300年前より一子相伝で殆ど長子にのみ技術は伝えられ(北斗神拳か!)、弟子を他所から取らなかったため、開窯以来の伝統的な技法がそのままよく保存されており、これが大きな理由となって平成7年に国の重要無形文化財に指定されました。

飛び鉋、刷毛目、櫛描き、指描き、釉の流しかけ、等に特徴がありまして、大体は、朝鮮様式の焼物ですが、飛鉋(とびかんな)は中国宋代の磁州窯に始まった技法で、長く途絶えて方法が謎とされていましたが、昭和29年にここ小鹿田を訪れたイギリス人陶芸家バーナード・リーチが、この謎とされていた技法が脈々とそのままこの小鹿田にひっそりと残っているのを目の当たりにし、すごく感動したという話が残っています。(小鹿田の飛び鉋は割と近年独自に編み出した技法であり、宋代の技法が伝わったものではない、という説もあるようです)その後リーチは何度かここに逗留しいくつか作品も作って残しているようですが、彼や一緒に来た民芸運動思想家・柳宗悦(むねよし)、浜田庄司、河井寛次郎、等が高く評価したことから、一躍“小鹿田焼”の名は日本全国や海外にまで広く知られるようになりました。


IMGP0768_1.jpg  IMGP0774_1.jpg

“韓臼(からうす)”という水力を利用したシーソー状の粉砕機で土を細かく砕き、水漉(すいひ)してオロと呼ばれるムシロを敷いた水抜き台でドロ土にして、それを素焼きの鉢に小分けしてさらに水分を取り、天日や専用の窯上で乾かして適度な粘土をつくります。殆どは昔ながらの蹴轆轤(ケロクロ)で器を形成しますが、ロクロの回転は私たち京都流とは反対の左回転です。素焼きをしない生の生地に釉薬をかけ、そのまま天日干しして窯に詰め、朝鮮式登り窯で2、3日ほどかけて焼き上げます。

IMGP0776_1.jpg  IMGP0780_1.jpg

かたくなに300年守り続けた“一子相伝”、土は他所のものを混ぜず共同で年2~3回地元の土のみを採り、皆で平等に分け合って、作品に個人銘を入れることを慎むなど、共同体としての品質やイメージを守ることを第一としているようです。土・釉薬・燃料の薪、全て地元でまかない、動力を使わない蹴ロクロ、今や全国的にも殆ど皆無になったといってよい共同窯さえ現役! 大げさでなく、奇跡といってもよい貴重な“やきものの里”であると言えるでしょう。

つい最近2008年には、地区全体(約14ヘクタール)が“小鹿田焼の里”の名称で重要文化的景観として選定されたそうです。ゴットン、ガッタンと始終止まることなく韓臼の音が谷川に鳴り渡り、棚田の美しい山あいの里。

IMGP0754.jpg

個人的には、色々考えさせられるところもありますが、この里の“一子相伝”が、本当のところは、やきもの屋の同業が増えること、或いは、家族兄弟総出の家業とすることを許さない、食べてはいけないギリギリの仕事でしかなかった現実が背景にあったことを忘れてはいけないと思います。昔は半農半陶が当たり前で、やきもの専業となってからまだ半世紀にもなっていないのだそうです。

30年ほど前に読んだ焼物の本に、“悲しみをカイコが食べて紡ぎ出したようなヤキモノ - それが小鹿田の焼物だ”と、あったのを思い出します。





スポンサーサイト
..

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。